『行間を読む』って言葉、あるじゃない。
小説は行間を読ませるのが大事って聞いたんだけど、具体的にどうすれば良いのかわからない。
そもそも行間って何?
行間を読ませる意味と方法を教えてほしい。
そんな疑問に答えます。
『行間を読む・読ませるのが大事』というのは、日本語ではわりとよく耳にしますよね。
しかしながら、具体的な意味や方法がよくわからない、という方も多いのではないでしょうか。
私も昔、めんどくさいので小説なんか書かない、という初対面の方から「小説で一番大切な事ってなにかわかる?」と聞かれた事があります。
その後は「小説は行間を読ませるのが大事なんだよ~、大丈夫か小説家!」なんて小馬鹿にされてしまいましたが、これは対応力を試される、中々に貴重な経験でした。
ともあれ、この記事ではなにかと抽象的な意味として扱われやすい『行間を読む』という事をなるべく具体的に定義していきます。
その上で、小説書きとして我々は何をすれば良いのか、そんな解決策の部分までセットでお話していきます。
15年以上毎日小説について考えて出した結論なので、もし良ければ参考にしていただけるとありがたいです。
Contents
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【小説の書き方】『行間を読む』の意味と手法について解説します
さて、まずはいつものように結論から先にいきたいと思います。
『行間を読む』というのは、文章には書かれていない、作者や物語の隠された意図や意味合いを汲み取る、という意味で使われる言葉です。
この文章と文章の間に本当は書かれていても良いはずの、隠された真実……! という感じですね。
なので、『行間』というわけです。
この行間を読むというのは、直接的に表現されていない事を汲み取るという意味で、現代社会人の重要なスキルとして扱われることがあります。
では、小説の場合はどういった立ち位置になっているのか。なぜ重要なのか。どうすればいいのか。
そこが問題ですよね。
『行間を読む・読ませる』という言葉は上記のとおり、非常に抽象的で、人によって解釈が異なる単語です。
なので予め話しておきますが、ここまでが一般論、ベースの知識の部分です。
ここからは私の個人的な解釈が混ざります。
もしかすると合わないなと感じることがあるかもしれませんが、他の考え方を否定する目的ではありませんので、ひとつの意見として読んでいただければ。
なぜ小説で『行間を読む』のが大事か
こと小説で言うところの『行間を読む』というのは、つまり小説に文章としては書かれていないことを、想像して汲み取るという事ですよね。
小説というのは、仮想現実で起こった出来事・ストーリーを、文章に書くものです。
ここで一度、『出来事→文章』への変換が行われているので、起こった出来事のすべてを伝えきるのは難しいです。
たとえば、学校帰りに友達の家に行く約束をしていた人が、母親から「大至急お米を買ってきて、晩ごはんが作れない」と言われたとします。
仕方がないので友達との予定はキャンセルして、急いでスーパーに行き、お米を買いました。
ところが家に帰る途中、「あったからやっぱいいわ」という一文だけが書かれたメールが、その人の所に届きました。
この時、当人はけっこうモヤモヤとした気持ちを抱えますよね。
なんでもっとちゃんと探さないんだ。わざわざこっちは友人との約束を反故にしてまで、米を買いに行ったのに。
そもそも、毎日炊いているはずの米の場所がなんでわからなくなるんだ……
実に様々な感情が駆け巡るわけですが、これを全部文章に書こうと思ったら、書ききれない訳です。
感情というのは止めどなく溢れるもので、かたちのないものですから。
そこで、文章としては『わたしは携帯の電源を切って、投げるように鞄の中に突っ込んだ』なんて表現が使われたりもするわけです。
そうすると、読者は事前のやり取りから「ああ、モヤモヤしていそうだな」と、間接的に理解しますよね。
こういった書き方が結果として、『行間を読む』という事に繋がっていきます。
小説の行間を読む書き方は、つまり『適切』だということ
さて、『行間を読むのが大事』なんて言われると、つい『読者に想像させる書き方をすれば良いのかな?』なんて思ってしまいがちです。
しかし、『読者に想像させる文章』って何でしょうか。何を想像させたいのでしょうか。
ここが非常に重要なポイントになります。
『行間を読む文章』にこだわると、ついつい「直接的な表現は良くないのかな」と思ってしまいがちです。
しかし、特に価値のないところで直接的な表現を避けても、読者にとって分かりにくくなるだけで、あまり良いことはありません。
つまり、『行間を読む文章』には何を想像させたいのか、その目的が必要です。
想像して頂きたいのですが、「りんごを食べた」と一言で書けば済むものを、「赤くて丸くて匂いを嗅ぐと甘い香りのする、果物として定番のアレを食べた」と書いても、なんのクイズだよと思うだけで、ぶっちゃけ煩わしいですよね。
ところが、巷で噂の蜜がとても多いりんごを食べることになり、そのりんごを主人公が味わいたいとすると、「りんごを食べた」では味気なさすぎます。
そこで、「目が覚めるように赤くて艶があり、形もいい。特に見た目はどこにでもあるような普通のりんごと大して変わりないが、一つ一つの要素が洗練されている」なんて文章が登場したりするわけです。
小説では、直接的な表現はその意味がよく伝わる一方で、『適切ではない』ということがあるんです。
たとえば、前項の母親と学生のやり取りを振り返ってみます。
『わたしは携帯の電源を切って、投げるように鞄の中に突っ込んだ』と表現するところを、『わたしは怒った』と直接的に書くと、どうなるでしょう。
怒ったというのは、どういう怒りを感じたのでしょうか?
怒りの種類は様々で、ガーッと叫びたい怒りもあれば、ふつふつと煮えたぎるような怒りもあります。
言葉にできない感情もありますよね。なんとなくモヤモヤするとか。この場合はまさに、そういった感情ではないでしょうか。
言葉にできない部分を表現したいから、それを直接は書かずに、行動や形容で表現する。
そうすると、実際に起きた行動から、おもわず読者が『行間を読んでしまう』というわけです。
行間を意識した小説の書き方・実践編
さて、前項までの内容で、『行間を読む』ということがつまりどういった現象なのか、イメージできる方が増えていれば嬉しいです。
でも、「言いたいことは分かったけど、つまりどうすればいいの?」と思う方も多いのではないでしょうか。
そこで、『実践編』として、どんな状況で思わず行間を読んでしまうような文章が作れるか、2点ほど挙げてみたいと思います。
- 端的に説明しにくい感情
- 一言で表現してしまうと勿体ないシチュエーション
もちろんここに書かれている事が全てではありません。
自分の書きたい小説でどんなイメージを大切にしていきたいか、参考にしながら考えていただければ、役にも立つかと思います。
1.端的に説明しにくい感情
まず、『端的に説明しにくい感情』と書きましたが、感情というものはほとんどの場合、端的に説明しにくいです。
以下に、いくつか書いてみます。
- 『嬉しい』:「彼女は喜んだ」
- 『悲しい』:「彼女は悲しんだ」
- 『苛立ち』:「彼女は怒って」
- 『寂しい』:「彼女は寂しかった」
さて、左に感情、右に文章表現を書いてみました。
でもこれ、ほとんどの場合は完全なるイコールではないですよね。
たとえば、日常生活における『嬉しさ』というのは本当に様々な形があるので、「喜んだ」だけでは表現しきれない事がたくさんあります。
嬉しさのあまり叫んだとか、思わず安堵して涙がこみ上げてきたとか、大切な人と一緒にいられて穏やかな嬉しさを感じているとか。
こういった感情表現の部分がチープだと、読者の感じ方もチープなものになってしまいます。
もちろん、「喜んだ」と書いても良いんです。嘘ではないわけですから。
あまり重要ではないシーンなら、簡略化して「喜んだ」と一言で書きたい時もあるかもしれません。
なので状況によっては書いても良いんですが、全部をそうするとチープに見えるので、その嬉しさのイメージがどういった形なのか、極力読者に伝える努力をしてみましょう。
複雑な気持ちであるほど、イメージを文章で伝えていく必要があります。
私のおすすめは、こういった複雑な表現になるほど、感情を直接言葉で書くのではなく、行動で示すことです。
2.一言で表現してしまうと勿体ないシチュエーション
たとえば「おいしい」しか言えないグルメ番組ってどうでしょう。
一度は笑えるかもしれませんが、ずっとそのままだと、ちょっと物足りない感じがすると思います。
このように、よりディテールに寄りたいシチュエーションというのは様々な状況で訪れます。
たとえば、昔懐かしい小学校に来た瞬間とか。
夕暮れの海で恋人と手をつないでいるとか。
少し違うベクトルでいくと、大量の虫が発生したとか。
こういった状況で詳細を書くと、それはよりリアルな想像ができるようになり、色んな意味で破壊力が増します。
「大量に虫が発生した!」より、「それは、バケツの中を大量に蠢いている。量が多すぎて、バケツが今にも倒れそうだ」の方が、より気持ち悪さが増しますよね。
これは文章をただ読んでいるだけではなくて、そこに立っている感覚や、もっと言えば登場人物がそこに居る時の気持ちを思わず読者が汲み取ってしまうからです。
『行間を読む』に当てはまるものかと思う方が居るかもしれませんが、原理は一緒ですよね。
想像させたい。だから直接的な単語を使わず、手に触れるほどリアルな表現を探してみる。
このように、読者の視点に寄ってみることが、最終的には『思わず行間を読んでしまう素敵な文章』に変貌していきます。
つまり、『行間』は意識しなくてもいい
ここまで書いてきたのですが、ひとつ最後にお話したいことがあります。
それは、作者の立場としては別に『行間』は意識しなくてもいい、ということです。
読者がどんな読み方をするかは分からないですし、書けば書くほど色々な感じ方をする読者に出会うので、もはやこれをコントロールするのは無理というものです。
ということで、まずはなるべく適切だと思う文章表現を目指すことではないでしょうか。
文章表現の適切さを追い求めていった結果、『言葉ではとても言い表せない感情』を読者に文章で感じていただく。
私としては、それが『行間を読む』という言葉に秘められた着地点、ゴールだと感じています。
これって、自分から『読者に行間を読ませよう』と努力するというのは、少し違いますよね。
だから、より適切な言葉を追い求めていくことが、我々作り手の使命なんだと。
現在の私は、そんな所に結論を持っています。
色々意見はあるかと思いますが、最初にお話したとおり、他の誰かの意見を否定するものではありません。
誰かの参考になったら嬉しいなと思いつつ、『行間』についてはここで筆を置きます。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。